浦辺粂子



浦辺粂子(うらべくめこ 本名:木村くめ 1902年10月5日生)
 [女優]


 静岡県出身。父は長松山泰平寺の住職。「一生食べる米に困らないように」との願いを込めて、「くめ」と付けられる。1909年に、小学校に入学。母の姉が、東京の明治座で吉野屋という売店を経営しており、いつも演芸雑誌や芝居の絵番付に触れていたことから、芝居好きとなる。1917年に私立の沼津女学校に進学。この頃から、休日にはよく母と一緒に芝居見物に上京するようになり、舞台を見ているうちに本格的に役者への願望が増していき、1919年に中退する。しかし、家族に猛反対された。そこで、父には内緒で、母を口説き、お金を借りて家出する。そして、女優への足がかりとして奇術団の一座に飛び込み、旅費が工面できない間、遠山みどりの芸名で一座とともに全国を巡業する。1921年に山梨県大月に来たとき、やっと一座を抜けて上京する。

 最初は日活向島撮影所を訪れるが、守衛から門前払いをくらう。しかたなく、浅草の根岸歌劇団のオペラ小屋である、金竜館の踊子としてデビューする。しかしながら芽が出ずいろいろな劇団を転々とするようになる。しかし、新派の筒井徳二郎一座と合同公演した際、筒井一座の娘役が急病で倒れたため、その代役に立ったところ、座長に認められて筒井一座に移る。この一座の名古屋公演に同行して、スター扱いで『月形半平太』などに出演、新聞の演芸欄に名前が載るようになる。またこの頃、日活京都の装置部にいた波多野から、日活の女優採用試験を受けるよう薦められる。そして、六十数人の中から選ばれた5人のうちに入り、ついに夢にまで見た活動写真の女優となる。日活京都で、尾上松之助の相手役として『馬子唄』でデビュー。第二部の『清作の妻』で、映画に出演し、性格女優として人気を博す。

 その後、結婚により退社、引退するが、離婚して復帰する。第二次世界大戦後の日本映画全盛時代の1950年代からは、「名脇役」として目覚しい活躍を見せた。大映倒産後はフリーとなった。1966年に紫綬褒章を受章、1977年に第1回山路ふみ子映画功労賞を受賞。その後も活躍を続け、1980年代には、テレビのバラエティ番組でも「おばあちゃんアイドル」として人気を呼ぶ。1984年11月21日には『わたし歌手になりましたよ』で歌手デビューを果たした。これは、1992年にきんさんぎんさんに抜かれるまで、日本での最高齢レコードデビュー記録であった。

 1989年10月25日午前7時55分頃、東京都渋谷区の自宅で湯を沸かそうとした際に、和服の袂にコンロの火が引火、全身に大火傷を負い、自宅前の道路で倒れている姿を発見され病院へと緊急搬送。適切な治療が施されたが、翌日搬送先の病院で大火傷による呼吸不全のため死去。全身の約70%にやけどを負っていたという。「生まれるときもひとり、死ぬときもひとり…」というのが口癖だった浦辺は、晩年は東京都渋谷の自宅でひとり暮らしを続けていた。実は1986年10月にも自宅の階段で脚を踏み外して転落し、1階の床に前頭部を強打し出血をする事故を起こしたことがある。だが、一人暮らしをしていたため、近隣の住民に発見されたのは三日後だった。発見者の話によると「毎朝、元気におはようって言ってくる浦辺さんが2日前から外に出てこない。変だと思って玄関を開けたら、血まみれで倒れていた」と言っている。この一件を機に浦辺は足腰が極端に弱ったため、事務所関係者の中には老人ホームへの入院を勧める人もいたが、浦辺はこれを拒み続けたと関係者は語っている。それでも事務所は何とか説得して、週何度かは家政婦が自宅を訪れ、様子を見たり、身の回りの世話をしたりする程度のことは行っていた。大火傷を負う事故に遭ったその日も午後から家政婦が訪れる予定だったという。浦辺は死の直前まで現役を貫いたが、通夜の弔問客は百人にも満たなかった。遺骨の引き取り手もなく、生家の菩提寺である静岡県沼津市の常照寺に眠っている。戒名は「大優院映照妙寿大姉」。

 1989年10月26日死去(享年87)


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