ヘンリ・トイヴォネン



ヘンリ・トイヴォネン(Henri Toivonen 1956年8月25日生)
 [フィンランド・ラリードライバー]


 WRCで通算3勝しか挙げていないにもかかわらず、長年史上最年少勝利の記録を保持したこと、全力を尽くしたドライビング、そして悲劇的な最期なども相まって「伝説のラリードライバー」「夭折の天才」として世界的にも語り継がれ、また日本でも特別な存在として扱われている。

 あまり口数の多い人間ではなかったこともあり、人柄についてはあまり知られていないが、実弟ハリいわく相当の頑固者で、ラリーに自身の全てを傾けていた人物であったらしく、その走りは常に全開、後続といかに差が開いていても手を抜くことなく走り続けたという。そして、未だ誰も乗りこなせたものがいないじゃじゃ馬、ランチア・デルタS4を乗りこなせた唯一の人物である。

 父親のパウリ・トイヴォネン、弟のハリ・トイヴォネンはともにラリードライバーであった。

 父パウリの影響を受け、早々からラリードライバーの道を目指していたヘンリ・トイヴォネンは、カート、ツーリングカーなどのサーキットレーシングを経て、1975年にWRCデビューを果たす。

 初優勝はタルボ・サンビーム ロータスに乗り参戦した1980年のRACラリー。当時トイヴォネンは24歳。WRC史上最年少での勝利であった。

 1985年のRACラリーで勝利し、そして1986年のラリー・モンテカルロで圧倒的な勝利を挙げたトイヴォネンは、ツール・ド・コルスへと臨むこととなる。しかし首位でレグ1を終えたトイヴォネンは「このラリーはすべてがうまくいっているのに、なにかおかしい。問題が起きたら、きっと死ぬだろう」と、自らの運命を暗示するかのような言葉を残している。

 翌5月2日、レグ2。SS18 コルテ-タベルナ。スタートから7km付近の左カーブでトイヴォネンの乗ったランチア・デルタS4はコースオフ、そのまま崖下へ転落。車体側面に木の幹が貫く状態となり炎上する。

 後続のブルーノ・サビーとミキ・ビアシオンは車を停め救助を試み、それぞれのコドライバーが必死に救援を求めるも、周囲は木の枝で覆われ脱出は不可能に近く、マグネシウムホイールを装着しケブラー樹脂とプラスチックで覆われたデルタS4の車体は瞬時にして焼け落ち、救護班が駆けつけた頃には既にパイプフレームとサスペンションを残し全焼。ヘンリ・トイヴォネンと、この年からコドライバーを勤めていたセルジオ・クレストは帰らぬ人となった。

 さほどきつくないカーブであったにも関わらず、何故トイヴォネンがコースオフしたのか、今となっては知るよしもない。後日、ワルター・ロールは「トイヴォネンはインフルエンザを発症し薬を飲んでいた」と証言したが、事故との因果関係は不明である。ただ、問題のカーブにはブレーキ跡が一切なかったということだけは確かである。事故現場は、数年にわたって黒い焦げ跡が残っていたという。

 現在、ツール・ド・コルスにおいてコルテ-タベルナのステージは使用されていない。そして、事故現場の近くには、トイヴォネンとクレストへ向けた小さな慰霊碑が建てられており、今なお多くのラリー関係者およびラリーファンが訪れている。

 1986年5月2日死去(享年29)


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