加藤大治郎



加藤大治郎(かとう だいじろう 1976年7月4日生)
 [ロードレースライダー]


 埼玉県出身。3歳の誕生日に両親からポケットバイクをプレゼントされたことをきっかけに、自宅近くのサーキット秋ヶ瀬に通うことになる。武田雄一、亀谷長純(従兄弟)、阿部典史といった後のロードレースライダーが秋ヶ瀬に集っており、大治郎は彼らと競うことで腕を磨いていった。秋ヶ瀬のオーナーの息子であり、後のフォーミュラ・ニッポンチャンピオンとなる本山哲を兄のように慕っていた。11歳のときにミニバイクレースにステップアップ、連戦連勝を誇った。

 1992年、16歳になりバイクの免許とロードレースライセンスを取得。1993年に九州・熊本のホンダ系名門チーム「Team高武」に加入。九州選手権の3クラス(GP250、GP125、SP250)で出場した全てのレースで優勝し、3クラス全てでチャンピオンを獲得。関東選手権、鈴鹿選手権でも勝利を重ねた。当時高校生だった大治郎は、レースの度に住んでいた埼玉と熊本を往復していた。両親の方針もあってレースがあるからといって高校を休むことは無かったという。

 1994年、Team高武から全日本ロードレース選手権GP250クラスにフル参戦。マシンはホンダRS250R。転倒の相次ぐシーズンだったが、終盤のTIサーキット英田で初優勝をとげる。鈴鹿8耐にも初参戦し、辻本聡とのペアで挑むもリタイアに終わる。1995年、前年の活躍を受けてHRCからワークスマシン・ホンダNSR250(型落ち)を貸与される。2勝を上げランキング5位。1996年には4勝でランキング2位。ロードレース世界選手権日本GP(鈴鹿)にスポット参戦、3位に入る。

 1997年、ホンダワークスのカストロール・ホンダに加入、チャンピオン候補の筆頭となる。シーズン開幕前に交通事故に遭った大治郎は全日本開幕戦を欠場、スポット参戦予定の日本GPへの参戦も危ぶまれたが、大治郎は欠場を促す医師を「絶対に勝つから」と説得、骨折を抱えた体で日本GPに臨んだ。予選3位からスタートし、ホンダの先輩でGPレギュラーの宇川徹、1993年GP250クラス世界王者の原田哲也とトップ争いを繰り広げ、最終ラップの最終コーナーでトップに立ち、優勝。全日本でも8勝を上げ、初の全日本チャンピオンに輝く。

 チャンピオンとして臨んだ1998年、HRCがNSR250をフルモデルチェンジ、熟成が進まず大治郎のみならず世界選手権でもホンダGP250勢は不振に陥った。その中でも日本GPを連覇、改めてその才能を世界にアピールするも、全日本では1勝も上げることなくランキング8位に低迷してしまう。 前年の苦悩を繰り返すまいと、1999年はNSR250の開発に尽力した。ヤマハの松戸直樹とのタイトル争い。後半戦に4連勝と巻き返したが、最終的に松戸とポイント・勝利数・上位順位獲得回数で並び、レギュレーションによって前年のランキングが上位だった松戸にチャンピオンの座を奪われた。

 2000年、イタリアのグレシーニ・レーシングに加入し、GPライダーとしてロードレース世界選手権GP250クラスにフル参戦。第3戦日本GPでシーズン初勝利、シーズン終盤にも3勝をあげ計4勝、ランキング3位。第15戦パシフィックGPでは、ヤマハの中野真矢とファステストラップの応酬によるハイレベルなトップ争いを展開し優勝。このレースはファンの間でも名勝負として人気が高い。この年の鈴鹿8耐には宇川徹と組んで出場し、最多周回記録を更新しての初優勝。

 GP2年目の2001年、第15戦マレーシアGPで大治郎は自身初の世界チャンピオンに輝く。最終戦リオGPにも勝利し、GP250クラスの年間最多勝記録に並ぶ11勝を上げ、チャンピオン獲得に花を添えた。翌年、この功績を称え、文部科学省から「スポーツ功労者顕彰」が贈られた。

 2002年、最高峰クラスにステップアップ。最高峰クラスはこの年から「MotoGPクラス」と名称が変わり、それまでの2st500ccマシンに加え、4st990ccマシンが参戦できるようになった。チャンピオン、バレンティーノ・ロッシの乗るホンダ・RC211Vなど、4stマシンの多くは大治郎の乗るホンダ・NSR500をはじめとする2stマシンの能力を大きく上回り、ほとんどのレースにおいて2st勢は優勝争いに加わることは無かった。スペインGPでは2st勢としてのシーズン最上位タイとなる2位を獲得するなど活躍。第10戦チェコGPからRC211Vを供給されるに至る。チェコGPでいきなり2位に入り、パシフィックGPではポールポジションを獲得。MotoGPクラス初優勝が期待されたがリタイア、それ以降も優勝できないままシーズンを終えた。

 前年、体の小さい大治郎は大きくパワーのあるMotoGPマシンを扱いきれなかったことから、2003年初優勝を遂げるべく、オフシーズンに肉体改造に取り組んだ。ウィンターテストにも熱心に取り組み、王者ロッシから最大のライバルとして名前をあげられた。

 確たる自信をつかめないままスタートしたシーズン開幕戦、日本GP、予選は好調といえない状態で11位。決勝ではまずまずのスタートをきり、4位争い集団につけた。3周目、130Rの立ち上がりで大治郎のマシンが左右に激しく揺さぶられ、コントロールを失い、マシンを立て直そうと試みたもののその先のシケインのスポンジバリアに高速で激突した。発生から激突まで2秒ほどであった。ヘリコプターで病院へ緊急搬送された時点ではまだ脈があったが、意識が戻らぬまま2週間後の4月20日未明、脳幹梗塞のため死去した。

 事故発生後からコース上で緊急治療が続けられている間、赤旗による中断がされずにレースが継続されたことに関して後に批判が巻き起こり、鈴鹿はこの年限りでカレンダーから外された。大治郎のチームメイトのセテ・ジベルナウは大治郎が使っていたファクトリー仕様のRC211Vを受け継ぎ、直後の第2戦南アフリカGPで勝利を大治郎に捧げた。

 大治郎が生前、野球チームを作りたいと話していたことから、彼の仲間が集まり「レーサーズ」という野球チームが結成されている。将来は本山哲の後を追うように四輪レースに転向したいという事もほのめかしていたが、叶わなかった。2004年5月8日イタリアのミサノ市で加藤大治郎を称え「viale daijiro kato」(加藤大治郎通り)が建設された。

 2003年4月20日死去(享年26)


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