久慈次郎



久慈次郎(くじじろう 1898年10月1日生)
 [野球選手]


 青森県生まれ、岩手県出身。盛岡中学を卒業後、早稲田大学に進学し、在学中から持ち前の強肩とリーダーシップを発揮。大学卒業後は北海道函館市の函館水電に入社、同社に務めつつ函館太洋倶楽部でプレー、永く函館に在住した。1927年には函館水電を退社し、クジ運動具店を開業。店主として10人近くの従業員を雇う企業家としても活躍。

 1934年にアメリカ選抜チームが来日するために結成された全日本チームに招聘された久慈は、全日本のエースであった沢村栄治とバッテリーを組み、アメリカ選抜チームを苦戦させた。

 同年、全日本チームを核として職業野球チーム「大日本東京野球倶楽部」結成するにあたり、選手・主将としての参加を要請されたが、参加を辞退。アマチュア野球の発展に貢献しようとした。これには理由があり、同年3月に函館を襲った大火、函館大火により市が壊滅的なダメージを受けており、函館を離れようという踏ん切りがつかなかったためである。この年、日米野球の函館開催に尽力し、函館復興に心血を注いだ久慈を政治の場に、との声が上がる。本人は「議員なんて似つかわしくない」と発言しており、積極的な選挙活動は一切行わなかったが、トップ当選で函館市議となった。

 1939年8月19日、選手兼任監督として札幌市円山球場での札幌倶楽部との試合に臨み、久慈は5回の守備からファーストに着いていた。1-2とリードされて迎えた7回、四球で一塁に歩く際、ホームベース上で次の打者に指示を与えようと振り向いた瞬間、走者が飛び出した二塁に向けて投げられた相手捕手の牽制球が右のこめかみを直撃、ホームベース上に倒れ込みそのまま動かず、そのまま市立札幌病院に運ばれたが2日後、頭蓋骨破損による脳出血でついに帰らぬ人となった。

 久慈の棺を乗せた列車は札幌から函館に向かったが、停車駅ごとに熱烈な野球ファンが駅に詰めかけて、久慈の死を惜しんだといわれている。久慈の墓は函館市の小高い丘の上に立てられ、その形はボールをかたどったものとなっている。

 1959年に創設された野球殿堂では、正力松太郎や沢村栄治らと並び、第1回の殿堂入り選手となった。

 1939年8月21日死去(享年40)


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