ピエル・パオロ・パゾリーニ



ピエル・パオロ・パゾリーニ(Pier Paolo Pasolini 1922年3月5日生)
 [イタリア・映画監督/小説家]


 1922年3月5日、イタリアのボローニャで軍人の家庭に生まれた。父はムッソリーニの命を救ったことで有名なファシストだったが母は感受性豊かな芸術家気質であり、正反対の気質から夫婦は不和だった。少年期のパゾリーニは父の軍務のため北イタリア各地を転々としたため、友達の少ない内向的な性格に育つ。戦時中は母と二人でフリウリで教師として過ごす。終戦直前に弟を反独パルチザンの内部抗争で亡くしており、このことはパゾリーニの性格と後の作品に大きな影響を与えた。

 戦後1947年にイタリア共産党に入党、しかし同性愛と青年を堕落に誘った容疑でパゾリーニは教職を免ぜられ、フリウリを追われたため1949年ローマの貧民街に移る。窮乏生活を送りながら1955年に小説『生命ある若者』を発表、作家として名声を得た。

 また、この頃から映画関係者とも交流を持つようになり、1955年にソフィア・ローレン主演の『河の女』や1956年フェデリコ・フェリーニ監督の『カビリアの夜』の脚本を共同執筆した。イタリア映画界はこの新進作家に注目し彼に脚本を依頼、40歳になろうとしていたパゾリーニは脚本家としてだけではなく、映画監督としても頭角を現していく。

 パゾリーニの作品は一般に難解とされ、特に初期の作品は複雑な台詞と暗示や比喩に満ちている。独特のロケーションも特徴のひとつで、アルベルト・モラヴィアとの世界旅行などをもとに普通の映画では考えられない辺境で撮影を行い、『王女メディア』のような独特の作品を生み出した。

 1975年、彼の名を一躍有名にした、スキャンダラスで謎めいた死を迎える。映画『ソドムの市』を撮り終えた直後のパゾリーニはローマ郊外のオスティア海岸で轢死体で発見された(激しく殴打され失神した後、パゾリーニ所有の乗用車を用いて轢殺されたと見られる)。

 事件は、本作に出演していたエキストラの少年にパゾリーニ監督が男色行為を強要して殺されたと断定されたが、遺体の惨状からネオ・ファシスト、反共主義者、マフィアなどによる暗殺も噂されていた。当時犯人として逮捕された男性が2005年になって、「犯人は別の3人組。家族に危害を加えると脅されたので罪をかぶった。もう両親も死んだので話せる」として、別の何者かがフィルムを盗んで監督をおびき寄せて殺害したことをインタビューで告白した。しかし男性は具体的な犯人像について口を閉ざしており、事件の真相は不明である。

 1975年11月2日死去(享年53)


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